日本美術刀剣保存協会 東京都支部


東京都支部会員からの寄稿

1.佐藤幸彦氏からの寄稿 (2013.1.19)

(かん) (がく) (いん) 日 録 (1)
 丙 子 椒 林 剣

大江匡房は平安朝切っての漢学者であった。前九年の役から凱旋した八幡太郎義家が得意になって戦争の報告をした時、「器量は()きもののふの、合戦の道を知らぬよ」と評して義家の兵法の師となったのは有名な逸話である。

 彼は晩年に、世間の雑事や有職故実の談話を、藤原実兼という若者に筆記させた。実兼は平治物語で有名な信西入道通憲の父で、秀才ではあったが夭折した。この実兼の筆記が「江談抄」として伝えられたものである。

 その江談抄に「聖徳太子御剣銘四字事」と題し、

    丙 毛 槐 林 吉切槐林  是切守屋ノ大臣ノ頸也

と記されている。

 大江匡房はこのわけの判らぬ四字の判じ物を「吉く槐林を切る」と読み、槐林とは大臣のことで物部守屋を意味し、聖徳太子が物部守屋の首を斬った剣なのだよ、と解説したのであろう。この剣は四天王寺の宝物として、永く伝わった(はずである)。

 江戸時代になって新井白石は大江匡房が丙毛槐林と読んだその御剣を拝見したら、何とその字は「丙子椒林」と読めたということを彼の著「本朝軍器考」に記している。現在国宝となっている剣は明らかに丙子椒林である。

 つまり大江匡房の見た御剣と新井白石の見た御剣は互いに別物であり、現在国宝になっている御剣は新井白石が拝見したものと同一と見て良いと思われる。新井白石が大江匡房の誤読を正したと記す人もあるが、現物を見ればそのようなことはあり得ないことが判る。

                                                                    佐藤  幸彦



2.佐藤幸彦氏からの寄稿 (2013.2.25)

(かん) (がく) (いん) 日 録 (2)
  じ ん じ ゃ う

 太刀 銘 元重  長さ2尺2寸5分、反り5分、本造り、庵棟。
身幅尋常で鎬高く、先枯れて小切先となり、反りの浅い姿。鍛えは杢目よく練れて詰み地映り入る

 太刀 銘 包永  長さ2尺3寸、反り6分5厘、本造り、庵棟。
身幅尋常で、鎬高く鎬幅広く、平肉が豊かにつき、反りが高い太刀姿。     

                                         以上2例「刀剣と歴史」

 太刀 銘 貞真(古一文字) 鎬造、庵棟、身幅尋常、元先の幅差殆ど目立たず、
重ね頃合い、磨上ながらも下半で反りつき中鋒、                 
                                         「刀剣美術」口絵

 とここに刀剣と歴史から2例、刀剣美術から1例の記事を引用する。これらにはすべて「身幅尋常」という言葉が使われている。すべて身幅がこの時代の作者として頃合い、という意味であろうか。

 刀剣美術は身幅尋常重ね頃合い、とていねいな説明になっている。 
この「尋常」という言葉は戦前に小学校のことを「尋常小学校」と呼んだように「ふつう」の意味なのであろう。
この現代では殆ど使われない言葉が鑑定の記述にどうして使われるのであろうか。

 実は古語で「尋常」とは「立派」を意味するのである。平家物語の有名な「那須与一」の章で、阿波・讃岐の平家方から源氏に寝返った者達が徐々に集まって来て、明日は戦をと両軍が対峙したとき、平家方から「尋常にかざったる小舟一艘、みぎはへむいてこぎよせけり」船のうちより齢十八九ばかりの女房のまことに美しきが、扇の的をたててさしまねいたのである。ここで那須与一がこの扇を射て面目をほどこしたのであるが、ここでの「尋常に」は「立派に」でないと物語にならない。

 桃山時代の発音を良く記録していて外人宣教師が利用していた邦訳日葡辞書でも 
「尋常」は「礼儀正しい」と記されている。

 元亀元年刀剣目利書では

一、助延 後鳥羽院御宇              姿尋常なり
一、宗吉 後鳥羽院御宇元暦の比     姿則宗に似たり、尋常なり

という具合にしばしば用いられている。

 この尋常、講談などで親の仇に巡り遇った時、「いざ尋常に勝負せよ」などと言う場合も同じ意味である。以上列挙したような例から見るに現代鑑定用語で「尋常」という言葉は使わない方が良いように思われる。
                                           
                                            佐藤幸彦